企画・エッセイ » 記事詳細

2017年も私のつたないエッセイをお読み続けていただいたことに、あらためて感謝申し上げます。

本稿の連載を始めてこの原稿が974回になりますので、今年中には1000回に到達します。

個人的には、いろいろな方から1000回記念の行事をやったらどうかというお話をいただきますが、これは房日新聞社のご意向をきかないといけないと思っています。

本稿の連載を続けてこられたのは、読者の皆さまの励ましのおかげと感謝申し上げます。

毎週原稿を書いて、木曜日の夜には忍足利彦記者に届くようにしないといけないので、忙しい時にはかなり精神的、肉体的負担になりますが、そう思った時にはどういうわけか、(亀田総合病院時代は)外科病棟での回診時に、患者さんから「加納先生、毎週、房日新聞のエッセイを楽しみにしていますから、大変でしょうが、続けてくださいね」と言われてしまうのでした。その度にこんなに多くの方が読んでくださっているのは、ほんとうにありがたく、幸せなことと思って、続けさせていただこう、と決心を新たにしてきたものです。

時々、「あれだけの文章を毎週執筆していたら、それだけでかなりの収入を得ておられるでしょうね」と言われる方がおられるので閉口しますが、「あれは本紙には注釈がついているように、私がボランティアで書いていますので、まったく収入にはなっていません」とご説明しています。私としても、これだけ長く続けさせていただくと、読者の皆様が私の良き理解者であり、親友であり、医療の良き理解者ですので、自分の体力が続く限り、連載を続けさせていただきたく思っておりますので、ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。

これまでに断筆の危機は4回、ありました。

1回目は2003年5月に心筋梗塞で倒れた時でした。このときは突然、右冠動脈が根部で完全閉塞するというかなり重症の心筋梗塞でしたので、自分でも「これで死ぬんだな」と思ったほどでした。あの時は病床で、息子に「房日新聞社に、心筋梗塞で緊急入院したので今週はエッセイを送れないとメールを送れ」と言って忍足利彦様にご連絡したのでした。

次は、心筋梗塞から生き延びて、同年9月にインドへ講演と手術に行っていたときに発症した脳腫瘍で、チェンナイで倒れ入院したときでした。あの時も何とか穴を明けずに原稿をお送りいたしました。数日間の入院治療後、帰国し、その後、日本で放射線治療を受けました。

その後の危機は、2016年4月に亀田総合病院から千葉徳洲会病院へ移った後の6月8日に、脳出血を発症した時でした。このときも血腫が直径54_と大きかったので、半盲などかなり障害が出ましたが、なんとか病状をその都度、皆さまにご報告し続けました。

この時は漢字がまったく書けなくなりましたが、ワープロでの入力はできましたので、執筆は続けました。高次脳機能障害が強くて、時計も読めず、方向が分からないので、歩行もうまくできませんでしたが、ワープロ時代、パソコン時代になっていたおかげで、執筆を続けることができました。

その後、リハビリ治療のお陰で、ほぼ通常の生活に戻り、手術にも復帰していたのですが、2017年4月下旬、日本外科学会へ出張中に2回目の脳出血を来たし、入院となりました。

この時は出血部位の脳損傷のため、失認、失行、失書が出て、ネクタイが締められず、平仮名、カタカナも書けず、糸結びもできなくなってショックでした。

しかし、このまま沈むわけにはいかないと思って、リハビリを続け、徐々に平仮名が書けるようになりました。現在ではネクタイも締められますし、手術の糸結びもできます。

現在では千葉徳洲会病院の医師数も増え、外科医も十分の人数がいますので、障害を持った私が手術に入る必要もないので、私は医師の確保を中心とした院長職、管理職に精を出しています。一方では、いつ手術の手伝いを頼まれても行けるように、糸結びの練習は続けています。

これからもいろいろと試練が待ち構えていると覚悟していますが、房日新聞社および読者の皆さまからいただいているこのエッセイの執筆という仕事を続けさせていただきたく思っております。2018年が皆さまにとって良い年となるよう祈っております。

* * *

加納宣康 昭和24年8月4日、岐阜県生まれ。千葉徳洲会病院長

(この原稿は加納医師が、本紙読者のためにボランティアで執筆しています)

1月9日20時00分 265
Copyright (C) 2007 Bonichi. All Rights Reserved